Zentai on the bed - Pt3
2008.10.26 [ Edit ]
ヘッセ 『車輪の下』
2008.10.25 [ Edit ]
村一番の秀才少年ハンス・ギーベンラートは神学校へ入学する。神学校というのは大学に進む前の専門学校のようなところで、国の補助金によって運営されており、ゆくゆくは牧師か官僚になるエリートコースの入口である。しかし、ハンスは学校の規律や教師の考えに反発を覚え、学業成績も下がり、しまいには心身を病んで退学してしまう。村へ帰ってからの失意の日々。つかのまの初恋を経て、機械工見習いとして再出発を図るのだが……。
注意:以降の記述で物語・作品に関する核心部分が明かされています。
立身出世を息子に望む厳格な父親、エリート教育の “正しさ” を信じて疑わない教師たちによる過剰な期待によって、次第に押しつぶされ、壊れていくハンスの人生は実に悲劇的である。
しかし、そんな大人たちの中に、一人だけ少年の理解者がいる。くつ屋のフライクおじさんだ。本作の冒頭近く、神学校の入学試験を目前にしたハンスに向かって、フライクは語る。
フライクおじさんは試験の話をし、ハンスの成功を祈って励ました。しかしおじさんのことばの本意は、そんな試験なんてものは、たいしたことじゃない。当たりはずれのあるものだと、いおうとしているのだった。落第したって恥じゃない、どんなにできるものだって落第することはある。ハンスがそんなめにあったら、神様はめいめいの人間にそれぞれ違ったおぼしめしを持っておられ、それぞれの人間にかなった道を歩かせられるのだということを考えてもらいたい、といった。
一方、落第したらどうしよう? と不安を打ち明けるハンスに対して、村のインテリ牧師は、「落第なんてありえない。」と言って、取り合おうともしない。
試験に合格し、神学校の寮生活を送るくだりは抽象的・観念的な描写が多く、わかりにくい。この箇所だけ文体・レトリックが違っているのは翻訳によるものかもしれないが、ひょっとしたら作者も書くのがつらかったのではないかと思う。
結局、神学校を辞めて村へ帰ってくるのだが、ハンスにはさらにつらい現実が待っていた。父親は息子の抱える悩みを拒絶する。かつての友人は皆就職している。幼い頃遊びに行った貧民街の愉快なおっちゃんたちはいなくなったか死んでしまった。生まれ故郷に彼の居場所がないのだ。ハンスは自殺を決意し、首をつる木の枝を選び、遺書を書く。本作の最も痛切な場面である。
後半は一転して、明るい雰囲気となる。フライクおじさんの娘、幼馴染のエンマとの恋の物語である。“ちょっとエッチな年上のお姉さん”である彼女は、たちまちハンスをとりこにする。あっさりふられてしまうのだけれど、かつての孤独と絶望はどこかへ消え去っている。
いつまでもぶらぶらしているわけにも行かず、父親のすすめもあって、ハンスは機械工見習いとして就職する。厳しい肉体労働だが、彼はまじめに取り組み、二日間働く。
三日目の日曜日、ハンスは友人や先輩に誘われ、午後からビールを飲み歩く。ジョッキを傾けながらのおしゃべりは作中最も楽しい場面だ。ヘッセ先生、ノリノリである。
酔っ払って家に帰る途中、ハンスは川に落ちて死んでしまう。(Wikipedia には 「自殺」 と書かれているが、断じてそうではない。彼が死を選ぶとすれば、首をつるはずだからだ。ちゃんとそう書いてある。)
後半の明るい展開から考えて、ハンスの死という結末はあまりにも唐突である。なぜ彼は死ななければならなかったのだろうか。
以下は私見である。
一つ考えられるのは、この自伝的小説において、作者が主人公を死なせてしまうというのは、作者の過去の自分を否定する行為なのではないかということだ。あまりにもつらい過去を葬ることによって、作者が一歩前進するのだとすれば、これを文学上の昇華と呼んでよいのではないだろうか。
もう一つ考えられるのは、結末部分で再度登場するフライクおじさんに関連する事柄である。彼はハンスの葬儀が終わった後で、ハンスの父親に向かって、村の教師や牧師たちを痛烈に批判する。また、父親とフライク自身の自己批判を行う。我々大人は間違っていたのではないか? と。素朴な信仰者フライクの考えがそのままヘッセの主張であるとすれば、フライクに結末の発言をさせるためにこそ、ハンスの死は必然だったのではないか、と考えるのである。
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田山花袋 『重右衛門の最後』
2008.10.19 [ Edit ]
だが、島崎藤村と同年代であり、ほぼ同時期に活躍していたにもかかわらず、いまどき花袋の小説など、ほとんど読まれていないのではないか。それもそのはず、代表作といわれる 『蒲団』 (1907年)がつまらないのである。
新潮文庫から 『蒲団・重右衛門の最後』 という本が出ていて、表題の二作が収録されているのだけれど、先に載っている 『蒲団』 を読み終わると、壁に投げつけたくなる。しかし、そこであきらめてはいけない。後半の 『重右衛門』 が面白いのだ。
『重右衛門の最後』 は明治35(1902)年に発表された中編小説である。
語り手兼主人公の 「自分」 は学生時代の友人に再会するため、信州の山村を訪れる。しかし、村では連続放火事件が起こっていた。犯人の目星はついているが、「現行犯でなければ」 という理由により捕縛されないままだという。その間にも村の家々に火が放たれていく。
放火事件の容疑者・藤田重右衛門は、生まれつき睾丸が大きく 「先天的不具」 である。暴れん坊で親を家から追い出し、結婚すれば酒を飲んで暴れ、妻に暴力をふるい、放火と賭博の罪で二度も投獄されている。身体的な障害のため子どものころからいじめられていたこともあって、彼は村人を憎んでいるが、周囲の人間もまた彼をもてあましている。あるとき、感情的なトラブルが原因で、「そんな吝(けち)くさい村だら、片端から焼払って了(しま)え」 と言って怒り出した後、放火事件は起こった。
容疑という観点からすれば、同機は十分にある。村人の恨みを買ってもいる。だが、重右衛門は放火の真犯人ではなく、実行犯は彼と同棲する17歳の少女である。(はっきりと書かれてはいないが、重右衛門は共謀犯ということなのだろう。)
業を煮やした村の者たちは、重右衛門を事故に見せかけて殺してしまうのだが……。
不遇の人生を歩んだ男が犯行動機を抱えるに至る過程、「村」 そのものが持つ閉鎖性、村人による残虐な私刑といったテーマは、現代にも十分通じるものがある。マスコミやインターネットといった情報手段が普及した現代社会は、明治の村をそのまま拡大したものではないかとさえ思えるくらいだ。
重右衛門の死後、今度は村中が火の海となり、焼け跡から少女の亡骸が発見される。自殺なのか他殺なのか最後までわからない。
それから7年後、村の若者が主人公に語る。
あの後は村は平和かと聞くと、「いや、もうあんな事は有りはしねえだ。あんな事が度々有った日には、村は立って行かねえだ。御方便な事には、あれからはいつも豊年で、今でア、村ア、あの時分より富貴(かねもち)に為っただ」と言つた。そして重右衛門とその少女との墓が今は寺に建てられて、村の者がおりおり香花(こうげ)を手向(たむ)けるといふ事を自分に話した。
事件の悲劇的な結末が一種の美談として語られるところに、この物語の真の残酷さを感じるのである。
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映画 『おくりびと』
2008.10.13 [ Edit ]
出演者
・本木雅弘 42歳なのに、同年代の俳優と違ってオッサン化していない。(ちょっと筋肉つきすぎだけどね。) この映画は 『シコふんじゃった。』 をはるかに超える、彼の代表作になると思う。・広末涼子 本木の妻役だが、実年齢15歳差とは思えない。前半の抑えた演技と後半の存在感の違いが、本作の流れを決定するくらい重要な役柄である。
・山崎 務 この人のキャラクターは人間離れしている。納棺師という特殊な職業の世界へ誘うメフィストフェレスである。
・笹野高史 銭湯の常連客の役。誰もが顔を知っている名脇役だ。後半、泣かせますね。
・杉本哲太 本木と同い年だが、対照的にいい感じのオッサンになってきた。
・山田辰夫 これまた名脇役。《キレる遺族》 の演技がすごい。
・峰岸 徹 本木の父親役。回想シーンでは顔が映らず、ラストでは遺体となって登場する。本日のニュースで訃報を知った。ご冥福をお祈りします。
「納棺師」 という職業
・納棺師というマイナーな職業にスポットを当てた作品である。納棺師は、遺族の目の前で遺体に死化粧を施し、死装束を着せる。その過程で、遺族は悲しみとともに、死を受け入れていく。・伊丹十三の 『お葬式』 で、江戸家猫八が葬儀屋の役を演じていたが、彼はあくまでも影の存在だった。本作とは好対照だと思う。
・映画館で販売しているプログラム冊子に、小林光恵 (元看護師で 『おたんこナース』 の原作者。エンゼルメイク研究会代表)が文章を書いている。エンゼルメイク(病院で亡くなった人の表情や身なりを整えること)について書かれていて、きわめて貴重な記事なので、これから映画館へ行くひとは買ったほうがいい。
映画で描かれる世界
・宗教的なものはほとんど出てこない。・納棺師が活躍する 《現場》 はすべて故人の自宅である。病院は出てこない。
・《家族愛》 が大きなテーマになっているが、兄弟姉妹は出てこない。(主要な登場人物は全員一人っ子のようだ。)
・出てこないものばかり挙げたが、それだけ作りをシンプルにして、的を絞りこんだ制作意図は見事に成功している。
・食べ物がやたらと出てくる。むしゃむしゃ食ってる。
・山形県酒田市と鶴岡市がロケ場所とのこと。本木が鳥海山をバックに河原でチェロを弾く場面は本当に美しい。
映画館の観客層は年齢かなり高め。
日本映画としては数年に一度、というレベルの大傑作なので、みなさんどんどん見に行ったほうが良いと思います。
「おくりびと」 公式サイト (クリックすると音が出ます。)
漱石三読〜まとめ編
2008.10.12 [ Edit ]

今年の1月にこんなことを書いた。
各作品の感想も少しずつ書いていこうと思っている。
今の僕にしか書けない事柄があるに違いないと考えるからである。
FETISH STATION - 漱石三読
それから9ヶ月。夏目漱石のすべての長編小説、いくつかの中・短編小説、1冊の随筆集に関する記事をようやく書き終えたところである。実際には昨年の春ころから読み始めたので、約1年半かかったことになる。
10代の終わり、30代前半に続いて、漱石をまとめて読むのは3回目であった。3回目といっても、今回初めて読んだ作品もあれば、一連の記事を書き始めた後でもう一度読み直した本もある。
記事の内容は基本的に 《感想文》 だ。現在の僕が思ったこと感じたことを記す目的で書き始めたのだから、それで良いのだと思っている。なぜなら、過去に漱石を読んだときに比べて、感じる事柄がかなり異なるからである。
読むたびに感想が異なる、というのは、漱石の作品が多面的であり、時代によって、あるいは読者の年齢や社会的立場によって、さまざまな解釈が可能だということである。(特に学生が読むのと社会人が読むのではかなりとらえ方が違う作品が多い。)
最初に読んだときにはほとんど印象に残らなかったような作品もある。『門』 ってこんなに面白かったのか! と感じるのは、それだけ僕が年をとったということなのかもしれない。また、今回初めて読んだ 『明暗』 は20代の頃だったら途中で投げ出していたかもしれない。夫婦者を主人公としたこれらの作品の良さは、独身者にはわからないのではないかとさえ思う。
何年か後、4回目の漱石を読むことになるだろう。
そのときにまた、今とは違った感想が書ければ良いと思うのである。
・夏目漱石の作品について書いた記事一覧(元の作品の発表された順)
吾輩は猫である
坊っちゃん
草枕
野分
虞美人草
坑夫
夢十夜
三四郎
それから
門
彼岸過迄
行人
こころ
硝子戸の中
道草
明暗




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