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From Tokyo to the world.

夏目漱石 『坑夫』

2008.09.20 [ Edit ]

 夏目漱石の 『坑夫』 は明治41(1908)年に朝日新聞に連載された小説で、執筆順序としては 『虞美人草』 の後、『夢十夜』、 『三四郎』 の前にあたる作品である。
 本作のユニークな点はその内容もさることながら執筆された経緯にある。そのあたりを新潮文庫の巻末解説(三好行雄)から引用してみたい。

「朝日新聞」には『虞美人草』に続いて二葉亭四迷の『平凡』が連載され、そのあと四十一年の元旦からは島崎藤村の『春』が載る予定だった。しかし、執筆のはかどらぬ藤村の希望で連載の開始がおくれ、急遽、その間の空白を漱石が埋めることになったのである。


 なんと、漱石は藤村の代役として起用されたのだ。ずいぶん豪華な執筆陣が並んでいることもあるが、ピンチヒッターとして突然、長編小説を書けと言われ、そのまま書いてしまう漱石の才能に、まずは驚く。
 漱石は、彼の元を訪れた荒井なにがしという青年から聞いた体験談を元に、本作を書き上げた。同巻末解説で、三好は 「漱石が書こうとしている坑夫の世界はまったく未知の対象であって、想像力による潤色や脚色を拒まれている。」 と述べているが、実際はまったく逆であって、ほとんど作者の想像力のみによって一つの世界を創造しているといって良いと思う。

 ストーリーはごく単純である。前半は一人放浪の旅に出た主人公がポン引に誘われて坑夫になるため旅をする話。後半は銅山(足尾銅山がモデルとされる)にたどり着いた主人公が、荒くれ者の坑夫たちに嘲弄されながら、地下の坑内に降りていく話となっている。前半と後半で主人公以外の登場人物が全員入れ替わってしまう展開はかなり無茶苦茶だが、そういう無理な展開に関して、主人公が 「これでは小説にならない。」 と嘆く場面があって、笑いを誘う。

「どうだ此処が地獄の入口だ。這入(はいれ)るか」


 上は鉱山の案内人 「初さん」 のセリフである。こういうワイルドなセリフがたくさん出てくるのも、本作の特徴だ。ほとんど冒険小説のノリである。いや、ノリだけではなく、全編を通じて主人公の冒険が描かれており、他の登場人物との会話や舞台となる場面の描写、小道具の隅々に至るまで、ロールプレイングゲームに近いものがある。(たとえば、漱石の小説には食事の場面がよく書かれているが、本作における食事、食べ物は“回復アイテム”という位置づけになっている。)

 『坑夫』 には“苦悩する近代知識人”は出てこない。前後の作品にみられるような絵画的に美しい場面もない。単純(シンプル)である。単純だが面白い。
 漱石の小説の中では最も目立たない作品ではないかと思うのだが、もっと注目されても良いと思う。


坑夫 (新潮文庫)坑夫 (新潮文庫)
(1976/07)
夏目 漱石

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『たったひとつの冴えたやりかた』

2008.09.16 [ Edit ]

たったひとつの冴えたやりかた - 煩悩是道場

 ululun さんのエントリで、『たったひとつの冴えたやりかた』 の改訳版が出たのを知り、さっそく読んでみた。

 本作のヒロイン、コーティー・キャスは一人ぼっちだった。
 彼女は宇宙船マニアであり、16歳の誕生日プレゼントに買ってもらった小型スペース・クーペを改造し、黙々と恒星間航路のプログラミングを行って、一人広大な宇宙へと出発する。おしゃべりするクラスメイトや、いじめっ子の男子や、一緒にゲームをする弟や、そういった仲間はここには登場しないのだ。
 友人とバスケやキャッチボールをしたりせず、一人で本を読んだり、パソコンに向かっていろいろやっている読者――そう、僕も、この記事を読んでいるあなたもだ――は、彼女のそんなプロフィールを読んだだけで、ハートを鷲づかみにされることだろう。
 しかし、ここで主人公にあまり共感してしまうと、あとでえらい目にあう。本作はそういう SF 小説である。

 コーティーは航行中に一人のエイリアンの友人と出会い、そこからストーリーは大きく方向を変えていく。

 レコーダーは、まだふたりの会話を記録しつづけている。しかし、もちろん、そこに彼女の感情は示されない。惜しいことに。
「記録のためにいっておきます」 とコーティーは報告するときの口調でいう。 「あたしは、あー、主観的な理由だけど、このエイリアンがあたしに対して誠実な友情をもっていると信じます。つまり、ただの方便じゃなくって、このあたしに対する友情。それはたいせつなことだと思います。あたしもシルに対しておんなじ気持ちです」

 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア 『たったひとつの冴えたやりかた』


 なんというか、ストレートすぎてちょっと恥ずかしくなるようなセリフだけれど、ラストまで読んでから、このセリフを思い出すと、たまらなく切ない気持になる。しかも、重要なのは、この“友情”のありかたが、SF でなければ描くことのできないものだということだ。

 本作の原題は "The Only Neat Thing To Do" である。(『たったひとつの冴えたやりかた』 という邦題は名訳だと思う。)
 本作で描かれる設定や描写のいくつかはすでに過去のものになっている。(テープに音声を記録するなんて!) neat という形容詞は、ウディ・アレンの映画のセリフでさかんに使われた記憶があるが、もはや死語である。それでも、“友情”は古くなったりしない、というのが本作を読んだ感想だ。
 傑作である。


たったひとつの冴えたやりかた 改訳版たったひとつの冴えたやりかた 改訳版
(2008/08/22)
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア

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僕の本棚

2008.09.14 [ Edit ]

本棚を晒す - 心揺々として戸惑ひ易く

inmymemory さんのリクエストで、僕も本棚の一部を晒してみることにします。


本棚 1995


本棚1995

 これは1995年、今の家に引っ越す直前くらいに撮影した古い写真。SF ばっかりですね。
 こういう写真はいろいろ思い出すものがあったりするので、引っ越しを予定している方は撮っておくと良いかもしれません。


現在の本棚


本棚2008

 こちらは現在の本棚で、一番上の写真の左上の段を写したもの。
 SF はほとんど処分してしまいました。写っているのは新しい本ばかりではないのですが、すっかり中身が入れ替わっています。


同じ本が2冊ずつ?


図鑑とか

 結婚すると、独身時代の本がダブったりするものです。
 こんなの処分してしまえばよさそうなものですが、ポケット図鑑のたぐいは中に書き込みがあったりするので、なかなか捨てられないんですよ。


あとで読む


これから読む本

 これから読む予定の本の一部。
 谷崎潤一郎は新潮文庫を読み終わったので、今は中公文庫にとりかかっています。

島崎藤村 『破戒』

2008.09.13 [ Edit ]

元ネタは聖書

 小説を読む楽しみの一つに“元ネタ探し”というのがある。
 島崎藤村の 『破戒』 (1906年発表)には 「聖書」 を元ネタとするエピソードが数多く登場する。藤村は明治学院在学中にキリスト教の洗礼を受けているため、聖書ネタが書かれるのはある意味当然かもしれないのだが、元ネタをリスト化したような文章がネットにあるかと思って検索してみたのだけれど、見つからなかった。
 順不同だがいくつか挙げてみよう。

 小学校教師の主人公・瀬川丑松は被差別部落出身の青年である。彼は同じく部落出身の思想家・猪子蓮太郎のことを 「先輩」 と呼び尊敬している。あるとき、政敵の高柳が丑松を貶めようとして、彼に蓮太郎との関係について問い詰める。ところが、丑松は三度にわたり強く否定してしまう。

いつの間にかあの高柳との問答――「懇意でも有(あり)ません、関係は有ません、何もにも私は知りません」と三度までも心を偽って、師とも頼み恩人とも思うあの蓮太郎と自分とは、全く、赤の他人のように言消して了(しま)ったことを思出した。「先生、許して下さい」こう詫びるように言って、やがて復(ま)た新聞を取上げた。

 『破戒』 第拾四章 (四)

*引用者注……丑松が読んでいる新聞には蓮太郎のことが書かれており、彼は学校でひとに隠れてそれを読んでいるのだが、このあとすぐに校長に見つかってしまう。


 この箇所は明らかに福音書に書かれている、ペテロがイエスのことを三度知らないと答えたエピソードを下敷きにしている。
 また、丑松が所有する蓮太郎の著書を、わざわざ蔵書印を墨で消してから古本屋に売り払う話は、まるでイスカリオテのユダである。(ここまではおそらく異論はないだろうと思う。)
 さらに、主人公ばかりでなく、悪役の校長は大祭司カヤパを思わせる。決して教育(あるいは信仰)のためではなく、自らの富と権力のために二枚舌を用いる彼の性格は、カヤパそのものであろう。余談だが、この校長の悪役ぶりは本当にすさまじい。コイツに比べたら、同年に発表された 『坊ちゃん』 の狸や赤シャツなど、子供だましみたいなものである。(それにしても、1906年というのはすごい年だったんだな。)
 こういう読み方をすると、本作のクライマックスで、丑松が教え子たちの前に跪き、泣きながら、自分が部落の人間であることを告白した理由――胸を張ってカミングアウトしたわけではない理由――も理解できるのではないか。つまり、彼が泣いたのは、自らの素性を恥じたからではなく、そのことを周囲の人間に嘘をついて隠していた「罪」を告白したからなのである。

エピローグと救い

 しかし、「罪」を告白したからといって、どこかからキリストが現れてすべてを許してくれるわけではない。『破戒』 の作品世界には、そのような意味での神は存在しない。にもかかわらず、本作の結末は意外なほどに明るく、ほとんどハッピーエンドに近い終わり方になっている。
 本作の大部分は丑松の視点で描かれているが、彼が告白を行った後のエピローグに相当する部分は、主に親友・銀之助の視点を中心に描かれ、銀之助たちの奔走によって、丑松の抱えるさまざまな問題が解決されていく。うじうじとした主人公の心情は切り捨てられ、あれよあれよという間に行動が始まり、人生の新たな出発に向けて駈け出していくのだ。(しかも絶望的と思われた恋愛まで成就している!)
 愛と友情が主人公を救ってしまう物語(その代り、当初に抱えていた問題は忘れられている)というわけだが、僕はこのスピード感のある結末部分が一番読みごたえがあると思うし、好きだ。

丑松の決心について

 《彼は部落出身者だけど、教養もあるし人柄も良いんだから差別しちゃだめだよね》 という考え方は、部落差別を肯定する理屈にほかならない。この思想が小説全編を通じて感じ取れるということが、昔から 『破戒』 に対しての主要な批判となっているようだ。この点に関してはまったくそのとおりだと思う。百年前の話なんだから仕方ないよなどと、時代のせいにするべきでない、重要な問題点だといってもよい。
 しかし、丑松が戦った相手は、部落民を差別する社会ではなく、部落出身者であることを 「隠せ」 と教えた父の戒めである。(『破戒』 という題名はこれに由来する。)丑松の思いは、父の戒めから次第に離れ、「せめてあの先輩だけに自分のことを話そう」 と思いつめているところ、当の先輩が政敵の手の者に暗殺されるとともに爆発する。職を失ってもいい、恋する女性に見放されてもいい、嘘をつきながら生きることには耐えられないという彼の決心は百年後の今であっても古くなってはいないのである。

 ひとつだけ。上に 「ほとんどハッピーエンド」 と書いたけれども、素性を隠して生きている叔父夫婦のことは忘れられていて、最終章で数行だけ言及されているのみである。丑松の告白によって彼らの人生にはどういう影響があるのだろう。銀之助は 「その時はまたその時さ」 などと楽観的なことを言っているが、大迷惑を被るのは間違いない。“カミングアウトしないまま生きる自由”はないのだろうか?

 本作は信州北部を舞台として、ある年の10月下旬から12月上旬(旧暦の)というきわめて短い間の出来事を描いている。登場人物はかなり多いけれども、一人ひとりが個性豊かであり、わずか数週間のあいだに実にさまざまな事件が起こり、それぞれの人生を変えていく。晩秋から冬へと美しい自然が移り変わるのと同時に、丑松たちの生きようは変わっていくのだ。(一人だけ全く変わらない人物がいる。こういうユーモアは楽しい。)
 分厚い小説だが、文章のテンポが非常に速く、とんとんと読み進めていくうちに、下手をするとおいてきぼりにされそうになるくらいだ。読み終わったときに、「読んだぞ!」 という実感と 「こういう話だったのか!」 という驚きを味わうことができる。名作である。



破戒 (新潮文庫)破戒 (新潮文庫)
(1954/12)
島崎 藤村

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映画 『グーグーだって猫である』

2008.09.10 [ Edit ]

ミイだって猫である


 大島弓子のマンガというのは、ある年代の女性に圧倒的に支持されていたことがあって、ほとんど誰もが読んでいるというか、作品の好き嫌いは人それぞれだけど、とにかく読んでいないとお話にならないみたいな、そういう時期がかつてはあったような気がする。(もちろん、我が家の本棚にも 『綿の国星』 はある。)
 公開中の映画 『グーグーだって猫である』 は、思春期にそういう経験をしたことのあるひとたちのためのものであって、大島マンガを読んだことがなかったら、さっぱりわからない作品かもしれない。本作は大島弓子の原作である漫画エッセイを映画化した、というよりは、映画を通じて一人の少女漫画家について語ろうとしたものになっているからだ。

 主演の小泉今日子はかつて 『子猫物語』 という映画でナレーションをつとめたことがあるが、ああいう動物映画を期待して見に行くとがっかりする。登場する猫たちはかわいいんだけどね。
 冒頭、15年間飼い続けたメス猫サバが死ぬ場面は泣ける。映画が始まって最初の10分で泣いたのは初めてである。(原作を読んだときも、最初の2ページで泣いたんだった。) 大島弓子のマンガには、猫が人間の姿で描かれるものが多いが、あの表現を映画ではどんな風にやるんだろう、と思っていたのだけれど、そうきたか! という感じで、サバが少女(15歳の大後寿々花が好演!)となって現れるシーンは素晴らしいと思う。ちなみに、脚本の構想段階ではサバの役は岸田今日子をイメージして書かれていたらしい。それも見てみたかった。

 音楽がすごく変だ、と思ったら、細野晴臣だった。
 解決しないコード進行に微妙な不協和音。アコースティック・ギターとシンセサイザー中心のいわゆる “癒し系” のサウンドだが、ちっとも癒されない。良いのだかどうかよくわからないのだけど、たぶん悪くはないんだろう。LSTY さんだったら、きっと褒めると思う。
 音楽といえば、林直次郎(平川地一丁目の弟のほう)がアマチュア・ミュージシャンの役で出演している。13歳でデビューした当時は神がかり的な美声だった彼だけれど、変声期を過ぎてから声がまったく出なくなってしまい、ちょっとこういう役はかわいそうだと思った。現在17歳だが、この映画を最後に芸能界引退だそうである。

 大島弓子が住んでいるという吉祥寺の町並みをきれいに撮っていることもあり、ちょっとしたサブカル回顧録になっているのも、この映画の魅力である。井の頭公園、象の花子、いせや、ハーモニカ横丁……。楳図かずおだって、この街の風景の一つなのだ。
 いやあんなのは本当の吉祥寺じゃない! とか、80年代少女漫画の真髄とは! とか、いろいろ語りたい女性がいらっしゃったら、チューハイ飲みながらお話をうかがってみたいものです。ただし割り勘で。


映画 「グーグーだって猫である」 公式サイト



グーグーだって猫である1 (角川文庫 お 25-1)グーグーだって猫である1 (角川文庫 お 25-1)
(2008/06/25)
大島 弓子

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