三島由紀夫 『金閣寺』
2008.08.27 [ Edit ]
選ばれし者が持つという第三の眼。詳しくは下記の原文を参照。
転じて、子供の頃に考えたような痛い妄想設定のことを総じて「邪気眼」と呼ぶこともある。
邪気眼とは - はてなダイアリー
ああ、これって三島由紀夫の 『金閣寺』 みたいだなあと思って、文庫本の冒頭部分を読み返していたら、以下の一節が目に止まった。
こうして日頃私をさげすむ教師や学友を、片っぱしから処刑する空想をたのしむ一方、私はまた内面世界の王者、静かな諦観にみちた大芸術家になる空想をも楽しんだ。外見こそ貧しかったが、私の内界は誰よりも、こうして富んだ。何か拭いがたい負(ひ)け目を持った少年が、自分はひそかに選ばれた者だ、と考えるのは、当然ではあるまいか。この世のどこかに、まだ私自身の知らない使命が私を待っているような気がしていた。
『金閣寺』 第一章
*強調部は引用者。
本作の主人公 「私」 が少年時代を回想して綴る様々なエピソードの始まりの部分である。このあと、「私」 自身によって自己の暗い思春期が語られるのだが、どれも中二病的な挿話ばかりが続いていくのだ。“邪気眼コピペ”はちょっとした笑い話であり、『金閣寺』 はシリアスな小説だが、きわめて共通するものを感じるのである。
“これこれの状況であればこれこれのように感じるのは当然だ。なぜなら〜”という書き方が本作には頻出する。感情の問題を論理的に捉えすぎていると思うのだが、そういうところもひっくるめて、「中二病」 なのではないだろうか。
「私」 は大学予科に入学、柏木という学生と出会う。「私」 もいい加減暗い性格だが、柏木のそれは遥かに上回っていた。
「君は、やっと安心して吃れる相手にぶつかったんだ。そうだろう? 人間はみんなそうやって相棒を探すもんさ。それはそうと、君はまだ童貞かい?」
私はにこりともしないでうなずいた。柏木の質問の仕方は医者に似ていて、私は嘘をつかぬことが身の為であるかのような気持にさせられた。
「そうだろうな。君は童貞だ。ちっとも美しい童貞じゃない。女にもてず、商売女を買う勇気もない。それだけのことだ。しかし君が、童貞同士附合うつもりで俺と附合うなら、まちがってるぜ。俺がどうして童貞を脱却したか、話そうか?」
柏木は私の返事も待たずに話し出した。
『金閣寺』 第四章
学友に初めて話しかけた結果がこれである。柏木は決して女性にモテる強者ではなく、自らの身体障害を必要以上に誇示し、さらに仮病まで使って女の気を引こうとする “いやな奴” である。ちなみに、僕の脳内では柏木の声はこの人によって演じられる。(あと、「下宿屋の娘」 というのが出てくるが、彼女の声はこの人だ。下世話な感じがぴったりだと思う。)
「中二病」 というのはある時期にかかり、いずれは卒業するものだが、「私」 にとっての邪気眼というべき金閣寺は、彼の内側でどんどん成長・巨大化し、彼の人生の前に立ちはだかる存在となっていく。何しろ女の子とセックスしようとするたびに、金閣寺が現れて不能に陥り、なかなか童貞を卒業できないのである。(目茶苦茶な話のようだが、こういうところが一番面白いと思う。)
過剰なまでに形容詞や比喩を駆使した美文調の文章と、緻密な構成が本作の特徴である。数ページ程度の短いエピソードが次々に語られているが、一つ一つの挿話が伏線となり、後で必ず何らかの意味を伴って再登場するあたり、小説としての完成度は極めて高く、読みながらだれることがない。
また、結末の数ページを除いた全てが 「私」 による回想になっているため、主人公の行動や思想が客観化されている点、語り手の 「私」 と語られている主人公の間に適度な距離が保たれている点など、非常に優れている。そして、すべての回想を終え、金閣寺に火を放った(現在の)主人公が最後にとった行動とは? ――というのが本作のテーマとなっているのである。
スポンサーサイトネットなしで生活してみた
2008.08.24 [ Edit ]
なんだかんだ、完全復旧するまで3週間近くかかってしまった。特に最初の1週間はほとんどネットにつなぐことがなく、その後も家族と共用のノートパソコンをちびちび使うだけで過ごしていた。また、仕事がたまたま忙しい時期にあたったため、職場ではときどきニュース記事を読むのが精一杯で、まとまった文章をアップすることはなかった。(そういえば、携帯でもあまりネットは見なかったなあ。)
さて、インターネットを始めて10年以上になり、ウェブ閲覧や書き込みが日常の一部になっている僕にとって、数週間のブランクは生活にどんな影響をもたらしたであろうか。いくつか書き出してみたいと思う。
- 毎晩、テレビを見るようになった。ちょうどオリンピックをやっていたしね。
- 読書量は思ったほど増えなかった。もっと、たくさんの本をまとめて読めるかと思っていたのに。
- もっとも、夜遅くまでだらだらと本を読む日が多くなり、ネット中心に生活しているときに比べて、夜更かしが増えてしまった。テレビゲームで夜更かしする人も、こんな感じではないだろうか。
- パソコンはちゃんと起動するのにネットにつながらないというのは一番ストレスがたまるので、よくないと思った。こういう時事問題などに全く関係のないブログをやっているのだから、記事の下書きでもすれば良さそうなものだが、とてもそんな気分になれなかった。
- はてブをやらなかったのは最初の1週間である。その結果、被お気に入りがかなり減った。しかし、その後の2週間でだいたい元に戻った。コンスタントにブクマし続けないと、読者は減少するのかもしれない。
- 自分のパソコンが使えないと、画像・動画の保存が出来ず、不便だった。その点、YouTube のようにウェブ上に再生リストを保存するサービスは便利である。もちろん、ソーシャル・ブックマークも同様だ。
そんなわけで、みなさんこれからもよろしくお願いします。
真夏の着ぐるみとお姉さん
2008.08.03 [ Edit ]

毎日、暑い日が続きますね。
上の画像は、某デパートで見かけた着ぐるみです。
入浴剤の販促用キャラクターらしいのですが、頭に手ぬぐいをのせた入浴スタイルのペンギンでした。
中の人の身長は、155cmくらい。屋内とはいうものの、夏場の着ぐるみは暑くて大変そうですね。
ところで、この着ぐるみには、背中にファスナーがついていませんでした。どうやって、着ているのでしょうか。
肩のあたりに、ストラップがついているのかもしれませんが、股の間にファスナーやマジック・テープがついている着ぐるみもありますね。
どちらにしても、ペンギンの手では、一人で脱ぐのは難しそうです。

ぽっこりしたおなかと、黄色い足がかわいいですね。
右側のお姉さんは、販促イベントのスタッフなのですが、黒タイツも要チェックです。
着ぐるみを脱ぐときは、仰向けになって、両足を広げた状態で、黒タイツのお姉さんにファスナーを開けてもらうのかもしれない……なんて、想像してみたり。

「あつ〜……!」
「早く、風呂入りてぇ〜!」
と、中の人の声が聞こえてきそうな、真夏の午後のひとときでした。
「ひとりラブホ」に行った話
2008.08.01 [ Edit ]

「ひとり焼肉」はできても「ひとりカラオケ」は恥ずかしい - タケルンバ卿日記
「ひとり焼肉」 も 「ひとりカラオケ」 も、もはや普通です。
僕なんか、「ひとりラブホ」 に行ったことがあります。(えらそう。)
「ひとりラブホ」 の目的はただ一つ。写真・ビデオ撮影、つまり自分撮りなんですよ。もちろん、変態です。(えらそう。)
どういう映像を撮影しているかというと、YouTube で zentai 、kigurumi、rubber、crossdressing などのキーワードで検索すると、たくさんヒットするので、興味のある方は探してみてください。(僕の画像はありませんが。)
ところで、「ひとりラブホ」 のとき、ちゃんとチェックインできたのに、部屋に入ったあと、フロントから電話がかかってきて、「お一人の方はお断りしてるんですけど」 と言われ、追い出されてしまったことが一度だけあります。
携帯電話が普及していなかった当時の話なので、あとから考えると、ホテトル(デリヘル)対策だったのかなあと思うのですが、いろいろ大人の事情があるのかもしれませんし、よくわかりません。
今だったら、独りでチェックインして、携帯で連絡とって客室で待ち合わせ、なんてこともあるみたいですけどね。
ラブホテルに呼出された:引いた瞬間、冷めた瞬間
もっとも、こんなトラブルもあるようですが。
「とか」のいろいろ
2008.08.01 [ Edit ]
世の中ではよく聞くけれど、なぜかどうしても違和感があって、個人的には決して使いたくないという言い回しがある。
その代表的なのが、例を挙げるときの 「○○であるとか、××であるとか ……」 という 「〜であるとか調」 である。聞いているだけで、なんだか気恥ずかしい。
tak shonai's "Today's Crack" (今日の一撃): 決して使いたくない言い回し
tak shonai さんは 「であるとか調」 が気に入らないと述べておられるけれども、これを文豪が用いるとどうなるかという例を挙げてみたい。
それにつけても猫の性質を知らない者が、猫は犬よりも薄情であるとか、無愛想であるとか、利己主義であるとか云うのを聞くと、いつも心に思うのは、自分のように長い間猫と二人きりの生活をした経験がなくて、どうして猫の可愛らしさが分かるものか、と云うことだった。
谷崎潤一郎 『猫と庄造と二人のおんな』 (新潮文庫)
好悪や違和感は個人の主観の範疇には違いないが、上の谷崎の文章 (1936年発表) は決して読者が気恥ずかしくなるようなものではないと思う。それはなぜか。
一つには、この文全体が 「猫は犬よりも薄情である」 という主語・述語の存在する文が挿入されている複文の構造をもっているため、「である」 の使用が自然なものとなっているからだ。もちろん、「(猫は犬よりも)無愛想である」、「(猫は犬よりも)利己主義である」 という具合にカッコ内が省略されていることも重要である。(上の例のような複文の構造をもたないのに、「〜であるとか、〜であるとか」 と並べるのは、僕もおかしいと思う。)
もう一つには、「とか」 が、本来的・辞書的な意味で用いられていることが挙げられる。複数のことがらを並べて例示する用法である。(とか - goo辞書参照。)
【例文1】
北海道とか沖縄とか、一度は行ってみたいんですよね。
これはおかしくない。
ところが、一つのことがらしか挙げていないのに、「とか」 を用いるケースがある。
【例文2】
ラーメンとか食べに行かない?
この場合、「とか」 は 「など」 に置き換えることが出来そうだ。など - goo辞書に 「多くの事柄の中から、主なものを取りあげて「たとえば」の気持ちをこめて例示する。多くの場合、他に同種類のものがあることを言外に含めて言う。」 と記されているが、そういうニュアンスのものである。この 「とか」 は僕が子供の頃はあまり用いられなかったように記憶するが、現在、少なくとも会話の中では完全に定着している。もともと話し言葉であるため、文章の中で用いると軽くなりすぎたり、曖昧な表現になってしまう気がするが、会話風の文体の多い web ではもはや当たり前のように使われている。
では、こういうのはどうか。
「なぜ教師になったんですか?」 と生徒から質問されたときの木村先生の答えである。
この 「とか」 は 「など」 に置き換えることが出来ない。ちょっとだけ表現を婉曲にした(つもりの)物言いだが、このような 「談話の流れをコントロールする言葉」 を 【談話標識】 という。
<若者言葉における談話標識> - 地球ことば村というページに、談話標識の例がたくさん挙げられているが、必ずしも文頭に用いられるわけではなく、上に挙げた 「とか」 は文中に、また 「〜ですよね」 の 「ね」 のように文末に用いられる。(BLOG STATION - 談話標識の「ね」 参照。)
こういう若者言葉はさすがに僕も自分で使うのは抵抗があるのだが、談話標識には流行りすたりがあって、すぐに古くなってしまうものでもある。
かつて、筒井康隆は 『言語姦覚』 (1983年・中公文庫) の中で、「あのですね」 という表現を槍玉に挙げたが、いまどき 「あのですね」 を当時のニュアンスで用いる若者がどれだけいるだろうか。
「女子高生とか好きだから」 というギャグのニュアンスが、10年後の高校生にどれだけ理解されるのか、とか思ったりするのである。

