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FETISH STATION

From Tokyo to the world.

【動画】マネキン人形のパフォーマンス

2008.06.29 [ Edit ]

mannequins01  mannequins02

YouTube で見つけたマネキン・パフォーマンスの動画をご紹介。(ルクセンブルグの人たちだそうです。)
上の画像のように、マネキン風のマスクと全身を覆う甲冑みたいなボディが、ちょっと不気味な雰囲気なのですが、なかなかエロティックです。

こちらの動画は、スタジオでの撮影風景。
ボディの部分、背骨が固定されているため、イスに座ったりしゃがんだりといった姿勢をとるのが難しい様子。モデルさんもさんざん苦労の末、笑い出してしまいます。




次の動画は、映画館らしき場所の周囲での街角パフォーマンス。
3体のマネキン人形が歩き回っています。
お尻に触ってしまうおじさんもいますね。



こういう開放的なフェティシズムも良いのではないでしょうか。

夏目漱石 『野分』

2008.06.28 [ Edit ]

 夏目漱石の中編小説 『野分』 は、明治40年(1907年)に発表された。
 本作の冒頭では、主人公の一人、白井道也(しらいどうや)について次のように書かれている。(以下要約)

 道也は大学を卒業後、新潟の中学校に教師として赴任する。しかし、ある演説会で金権主義を批判したことがきっかけとなり、地元の有力者や他の教師らの反感を買い、教師に扇動された生徒にまで罵倒されて、中学を辞職する。
 さらに、道也は九州、中国の中学に勤めるが、同じような理由によって辞職を繰り返す。彼は現在、妻とともに東京に住み、雑誌の記者の職を得て、貧しいながら暮らしている。


 強い正義感から、勤めていた中学を辞職して東京に帰る主人公という設定は、前年に発表された 『坊っちゃん』 を彷彿させる。『坊っちゃん』 の主人公は短気のため騒ぎを起こしているが、道也の場合はあちこちの中学で同じことを繰り返しており、思想的確信犯である。
 さて、ここにもう一人の主人公、高柳周作が登場する。彼は新潟出身で、中学時代に道也の教え子だった。高柳君はかつての元教師(しかも自分たちがいじめて辞めさせた経緯がある)が、自分と同じ東京にいることを知り、道也に会いに行くのである。本作はここから俄然面白くなる。
 小説 『坊っちゃん』 は、主人公の教師と生徒とのコミュニケーションについて、全く触れられていない。意図的に記すのを避けたのではないかと思うほど、生徒一人ひとりの存在感が希薄なのだ。本作は 『坊っちゃん』 において欠如していた“師弟関係”を十二分に描き出した名編なのである。もっとも、ユーモラスな味わいのある 『坊っちゃん』 と違って、本作は非常にシリアスな内容ではあるのだけれど。

 ストーリー展開の巧みなところが、本作の最大の面白さである。
 複数の主人公、その他登場人物の配置、効果的な場面転換といった手法は、次作にあたる 『虞美人草』 にも見られるものだが、多くの伏線を張り巡らし、結末に向けて解決していく展開は、漱石の他の作品にはあまり例をみない。

「先生私はあなたの、弟子です。――越後の高田で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。」


 高柳君が道也に告白する最後の場面は、感動的である。
 主人公たちは、病気や金銭問題などさまざまな悩みを抱えているのだが、この結末によって全てが吹き飛んでしまうかのようだ。こんな風に読後感の心地よい小説は、漱石作品には珍しいかもしれない。



二百十日・野分 (新潮文庫)二百十日・野分 (新潮文庫)
(1976/07)
夏目 漱石

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『ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち』

2008.06.15 [ Edit ]

『ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち』を読んだ。
近年、大流行のケータイ小説を巡って、少女文化、郊外、ヤンキー、デートDV、アダルトチルドレン等、様々な側面から掘り下げていて、非常に面白い本だと思う。
なかでも、僕が興味を持ったのは、「第2章 ケータイ小説におけるリアルとは何か?」である。

ケータイ小説の多くは著者、もしくは版元が「実話を元にした」話であることを謳っている。『恋空』は携帯サイトでの連載中は、「事実であること」を売りにしていた。それが書籍化され、版を重ねるうちに「事実を元にしたフィクション」という記述に変わった。ブレイクした時点での『恋空』は、読者に「事実」と映っていたのは間違いない。そこが、「リアル系」を良しとして、絵空事でしかない小説よりも、ドキュメント作品に感情移入する「リアル系」世代の読者にとっては重要な部分だったのだろう。

 第2章 ケータイ小説におけるリアルとは何か?


「絵空事でしかない小説」よりも、“実際にあった話”を好むという価値観、メンタリティは、ケータイ小説の読者(あるいはその世代)に限ったことではなく、実は昔からあったのではないか。

明治生まれの僕の祖母は生前、歌舞伎と時代劇が大好きだった。
歌舞伎が好きな理由は、演目の多くが“実際にあった話”(正確には実話を元にしたフィクション)だからだと言っていた。忠臣蔵も曽根崎心中も“実際にあった話”だから感動するのだという。銭形平次と水戸黄門を比べると、水戸黄門のほうが実在の人物だから“良い話”なのだという。
なんだかおかしな話のような気もするが、後に明治・大正生まれの高齢者と仕事上、接することが多くなったときに、こういう考え方が、僕の祖母に限らず、この世代の多くの人たちに共通する価値観であることに気づいた。
「『金色夜叉』は本当にあった話なんですよ。素晴らしいでしょう」というわけである。
さらに、この価値観は歌舞伎や通俗小説に留まらず、夏目漱石、谷崎潤一郎など文豪の作品にまで及ぶ。『痴人の愛』のヒロイン、ナオミのモデルになったのは誰か? といったようなことが真面目に研究されたりしているのである。また、長い間、純文学の主流であった私小説は、作者自身をモデルとし、作者の経験を事細かに綴るものであった。実在の人物や事件に取材したり、実体験に基づいたりしない小説は、“絵空事”、“荒唐無稽”と批判され、文壇から無視されるという時代が長く続いていたのである。

現代においては、小説とはフィクション=作り話であるということが、読者の間の共通認識とされている。作者の脳内で作り上げられた登場人物やストーリーは、それらが「リアル」に描かれているかどうかは別として、作者の想像力の賜物として評価されている。このような「作り話」を良しとする価値観は、古くは江戸川乱歩などの例があるけれども、小説の読者一般もしくは文学の世界で認められるようになったのは、この四半世紀のことではないかと考える。具体的には、SF、ファンタジーなどのジャンル小説が市民権を得た1980年代以降のことではないかと思うのである。(80年代といえば、村上春樹が登場したのも同じ頃のことだ。)

作者も読者も、従来の小説をほとんど読んでいないのが、ケータイ小説の特徴であるという。
彼らは、小説とは作り話である、という約束事に縛られていない(というか、そういう約束事を知らない)のではないだろうか。しかし、彼らのような新しい世代ばかりではなく、ケータイ小説に、「事実」や「実体験」を求めてしまう考え方は、意外と古くから存在するものだったのではないかと思うのである。


ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たちケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち
(2008/06/09)
速水健朗

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【ゼンタイ動画】 Zentai Foreplay...

2008.06.01 [ Edit ]

海外のアダルト向け動画サイトから、ゼンタイ動画をご紹介。

Zentai_Foreplay

yuvutu - bonnynclyde: Zentai Foreplay...

Bonny と Clyde はカナダ在住のご夫婦なのですが、半透明の全身タイツを着用して、柔らかそうなカーペットの上で、スリスリしています。(foreplay は「前戯」という意味ですね。)
場所が自宅のリビングのようで、後ろを猫が通り過ぎたりしています。
三脚を立てっぱなしにしているので、ときどき画面からはみ出しちゃったりするのですが、それもまたご愛嬌。とても楽しそうな雰囲気が伝わってくるようです。
二人の会話がずっと聞こえてくるのも良いですね。

そんなお二人のブログは、下のリンクからどうぞ。(18禁です。)
BONNYnCLYDE PHANTASY

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