「パンツが見えていますね」問題
2008.05.31 [ Edit ]
「窓が開いてますね」は、他者に対して、「締めろよ」であったり、「寒いじゃないか、場所を変えろよ」、「道路の排気が臭いじゃないか」、「ガキがうるさいぞ」など、多様の文脈的な意味というか、指示をもつ。
このあたりは、いろいろと学問的にも議論されているので割愛。
「窓が開いてますね」問題 - finalventの日記
男子が「パンツが見えていますね」という場合、女子に対して、「見せるなよ」であったり、「みっともないじゃないか、脚を閉じろよ」、「スカートが短すぎるじゃないか」など、多様の文脈的な意味というか、指示をもたない。
このあたりは、いろいろと学問的にも議論されているので割愛。
男同士の会話において、対面に座っている女子の「パンツが見えていますね」は、言葉としては概ね省略される。そんなの見ればわかることだからであるし、相手(男)が気づかなければ目で合図すれば済むからでもある。さらに、パンツの主のみならず、周囲の女子に聞かれたらまずいというのもあるから、「パンツが見えていますね」発言は暗黙裡に葬り去られるべきものである。これら全ての心象を瞬時にして理解し、沈黙を守る、見てみぬふりをすることを俗に「空気を読む」という。
ここで空気を読まずに、パンツの主に向かって、もしくは彼女に聞こえるように「パンツが見えていますね」と言ったらどうなるか。
相手が見知らぬ女性だった場合、彼女は軽蔑の視線をもってあなたを一瞥し、黙って席を立つかもしれない。ところが、なまじ顔見知りだったり同級生、同僚といった関係であったりすると、事態は酸鼻を極める。マンガだったら、つかつかと歩み寄ってきてビンタを食らう程度で終わるのだろうが、リアルの場合、「バカ」、「変態」、「キモッ」等々の罵倒とともに、ひたすら無視される結果をもたらすことになる。また、「バカ」、「変態」、「キモッ」等々の罵倒は周囲の女子にまで波及するため、男子は立ち直れないほどのダメージを被るのである。
権力構造という観点で考えると、パンツが見えた時点で、男子は優位に立ったように感じるわけだが、そんなのは一瞬で終わり、相手に気づかれた途端、たちまち前述のごとく立場の優劣は逆転する。原因が女子にあるとし、スカートが短いせいだとか行儀が悪いからだとか主張する輩もあるだろうが、そんなのは言い訳にすぎない。
「空気を読む」というのは往々にして、「黙ってろ」という意味をもっている。
「空気が読めない」ことを悩んでいる諸兄も、上の例であればその意味をご理解いただけるのではないだろうか。
「縞パンだった。ラッキー」と心の内で思ってさえいれば良いのである。
スポンサーサイト夏目漱石 『こころ』
2008.05.29 [ Edit ]
「上 先生と私」、「中 両親と私」、「下 先生と遺書」の三部構成だが、「下」が全体の約半分を占めており、「上」で度々語られる先生の謎めいた発言(伏線)に対して、「下」でそれらが解明されるというプロットになっている。
「下」では、先生、先生の友人 K、お嬢さん(後の「奥さん」)の三角関係、K の自殺といった事件を中心に書かれている。K の自殺の動機について、以下のように先生は推察する。
同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正(まさ)しく失恋のために死んだものとすぐ極(き)めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易(たやす)くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄(ぞっ)としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過(よこぎ)り始めたからです。
「下 先生と遺書」 五十三
一方、K の死後、何年経ってからのことか不明だが、先生もまた自殺を決意する。
すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯(からか)いました。
「下 先生と遺書」 五十五
明治天皇の大葬の日、乃木大将は妻とともに自害した。「遺書には、明治天皇に対する殉死であり、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死であるむねが記されていた(乃木希典 - Wikipedia)」という。
以下は本作の最終章からの引用である。
私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。
それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。
「下 先生と遺書」 五十六
漱石の小説の多くは、時代背景、人間と社会との関わりといった事柄が丹念に描かれている。「恋愛」のように個人の問題であっても、その背後には家族(家制度)や世間、社会というしがらみが必ず存在する。また、職探しを行う登場人物は、職業のことを必ず「地位」と呼ぶ。これは「社会的地位」という意味であろう。社会に対する見方が肯定的であるにせよ批判的であるにせよ、作中の人物と社会との関係に対して必ず言及するというのが、今までの漱石の作品の特徴だったのである。
ところが、本作の主人公「先生」は、いきなり「明治の精神」なるものを持ち出して、自殺を決心する。三角関係の話はどこかへ消えてしまっているし、K が感じていたと推測する「淋しさ」さえ、最後のほうでは忘れ去られているように見える。
そもそも、「明治の精神」とは何なのか。その内容について全く書かれていないので、さっぱり分からないのだ。(当時、生きていた人々には自明の思想だったのかと考えると、そんなことはないだろうと思わざるを得ない。)少なくとも、「先生」以外の登場人物とは直接関係のない事柄であるとしか考えようがないのである。
結局、何だかよくわからないというのが結論なのだが、同時に多様な解釈が可能になっているところが、本作の面白さでもある。
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夏目漱石 『行人』
2008.05.18 [ Edit ]
修善寺の大患と後期三部作
1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期3部作の3作目にあたる「門」を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血をおこし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。
夏目漱石 - Wikipedia
上に書かれている「修善寺の大患」の後に書かれた漱石の「後期三部作」と呼ばれる作品、『彼岸過迄』、『行人』、『こころ』 は、ストーリー上直接のつながりはないものの、以下のような共通点がある。
- 途中で語り手(または主人公)が交代する。
- 後半に語り手(または主人公)による長い手紙が書かれている。
- 「死」を扱ったエピソードが書かれている。
『彼岸過迄』 では、幼女の死(漱石自身の娘の死がモチーフといわれる)が、『行人』 では主人公・一郎が自身の死を意識する様が描かれている。さらに、『こころ』 では主人公・「先生」が自殺してしまう。
このように、作風がどんどん深刻化し、切羽詰った状況へ向かって行ったのは、作者漱石が大病を患い生死を彷徨った経験と大きな繋がりがあると想像することは難しくない。
一郎の苦悩
夫婦仲の悪い一郎は人生に絶望するが、奇矯な行動により家族を翻弄している。弟・二郎は一郎の親友「Hさん」に懇願し、兄を旅行に連れ出してもらうことに成功する。Hさんは旅先から二郎に宛てて長い手紙を書き送る。「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
夏目漱石 - 『行人』
上は、Hさんの手紙に記された一郎の有名な言葉である。死か狂気か宗教か。生きることに行き詰まった一郎の心境を端的に言い表しているのだが、この言葉には続きがある。
「しかし宗教にはどうも這入(はい)れそうもない。死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違だな。しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は君正気なんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖くてたまらない」
この箇所を読むと、一郎の言う「三つのもの」を彼がどれだけ本気で考えているのか疑問に思えてくる。というより、死も狂気も宗教も、彼にとって現実から逃避するための手段として捉えているにすぎないと考えられる。無論、彼はこれら三つのうちどこへも到達することなく、小説は結末する。
「まあ気違だな。」 ――「まあ」って何だよ、「まあ」って。
お貞さんの縁談
本作は作者の病気のため新聞連載が数ヶ月間中断したこともあって、雰囲気が途中から変わってしまったり、いくつかのエピソードが中途で投げ出されたままになったりしている。しかし、一つだけ最初から最後まで言及されるエピソードが存在する。即ち、親類(女中らしい)のお貞さんの縁談にまつわる話である。婚礼の直前になって媒酌人を頼まれた一郎が、お貞を書斎へ呼び、30分ばかり話し込む場面がある。(以下の引用箇所の語り手は二郎である。)
けれども書斎に入った彼女が兄と差向いでどんな談話をしたか、それはいまだに知る事を得ない。自分だけではない、その委細を知っているものは、彼ら二人より以外に、おそらく天下に一人もあるまいと思う。
結局、二人の会話の内容については最後まで明らかにされないままなのだが、結末に近いHさんの手紙の中で、一郎はHさんにこう語る。
兄さんはお貞さんを宅中(うちじゅう)で一番慾の寡(すく)ない善良な人間だと云うのです。ああ云うのが幸福に生れて来た人間だと云って羨ましがるのです。自分もああなりたいと云うのです。お貞さんを知らない私は、何とも評しようがありませんから、ただそうかそうかと答えておきました。すると兄さんが「お貞さんは君を女にしたようなものだ」と云って砂の上へ立ちどまりました。私も立ちどまりました。
作中、お貞の科白はほとんどなく、彼女がどのような人物なのか、直接には語られていない。だが、一郎は彼女について、「慾の寡ない善良な人間」だと評していて、しかも親友であるHさんと同様に信頼をおいている。
一郎ほどの切羽詰った人物であっても、「善良な人間」に対する信頼が存在するところに、一抹の光を感ずるのである。
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夏目漱石 『彼岸過迄』
2008.05.06 [ Edit ]
「彼岸過迄」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は空しい標題(みだし)である。かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持していた。が、ついそれを試みる機会もなくて今日まで過ぎたのであるから、もし自分の手際が許すならばこの「彼岸過迄」をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている。
夏目漱石 - 彼岸過迄に就て
作者漱石は『彼岸過迄』について、「個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだ」と述べているが、本作は今日一般にいう短編小説集ではなく、また連作短編という趣きでもない。後の『行人』、『こころ』との関連で考えるならば、途中で語り手を交代させることによって重層的な効果を狙った長編小説の手法と捉えることも出来そうだが、それにしては本作は中途半端な面があり、過渡期の作品と呼ぶしかなさそうである。
本作は、「風呂の後」、「停留所」、「報告」、「雨の降る日」、「須永の話」、「松本の話」、「結末」の八つの章から構成される。
大部分は三人称で書かれているが、それぞれの章は登場人物の視点から描かれており、冒頭から「報告」までは敬太郎、続いて千代子(「雨の降る日」)、千代子の従兄・須永、須永の叔父・松本、そして敬太郎(「結末」)と、視点は一巡する。
漱石の小説に登場する女性の中で、千代子は最も魅力的なヒロインだと僕は思う。若々しさ、自己主張の強さ(しかし決して強すぎない)、会話の巧みさなど、色々の面において、彼女は群を抜いている。「雨の降る日」は、幼女の急死という事件を千代子の視点から描いた章だが、漱石作品には珍しく、女性視点であることに注目したい。
「雨の降る日」では、叔父・松本の家を訪問中に、松本の末娘・宵子が千代子の目の前で急死する。通夜、葬儀、骨上(こつあげ。当時は火葬するのに一昼夜かかったらしい)と儀式の進行とともに、幼女の死という強い悲しみが描かれているのだが、この場面において、男たちは全くの無力、いや無能をさらけ出している。
そもそも、故人の父親である松本が、骨上に欠席しているのはどういうわけなのだろう?(この点については何も書かれていないのだが。)
また、須永は不謹慎なことばかり言って、千代子に責められる。
二人の問答を後の方で冷淡に聞いていた須永は、鍵なら僕が持って来ているよと云って、冷たい重いものを袂から出して叔母に渡した。御仙がそれを受付口へ見せている間に、千代子は須永を窘(たし)なめた。
「市さん、あなた本当に悪(にく)らしい方ね。持ってるなら早く出して上げればいいのに。叔母さんは宵子さんの事で、頭がぼんやりしているから忘れるんじゃありませんか」
須永はただ微笑して立っていた。
「あなたのような不人情な人はこんな時にはいっそ来ない方がいいわ。宵子さんが死んだって、涙一つ零(こぼ)すじゃなし」
「不人情なんじゃない。まだ子供を持った事がないから、親子の情愛がよく解らないんだよ」
「まあ。よく叔母さんの前でそんな呑気な事が云えるのね。じゃあたしなんかどうしたの。いつ子供持った覚(おぼえ)があって」
「あるかどうか僕は知らない。けれども千代ちゃんは女だから、おおかた男より美くしい心を持ってるんだろう」
「来ないほうがいい」とは随分な言われようだが、これはどう考えても須永のほうが悪い。
さらに、骨上から帰宅した後の二人の会話はこうである。
「叔母さんまた奮発して、宵子さんと瓜二つのような子を拵(こしら)えてちょうだい。可愛がって上げるから」
「宵子と同じ子じゃいけないでしょう、宵子でなくっちゃ。御茶碗や帽子と違って代りができたって、亡くしたのを忘れる訳にゃ行かないんだから」
もはや最低である。千代子の視点というのを除いても、須永は人間としておかしいとしか思えない。
この後、「須永の話」に移り、須永と千代子の関係が、須永の視点で延々と描かれるのだが、彼の考え方には全く共感できない。須永は、千代子のことを異性として意識していたわけではないのに、他の男が身近に現れると、急に嫉妬心にかられ、それゆえに、千代子から「貴方は卑怯だ」と、結婚する気もないのに思わせぶりな態度を取るのは侮辱であると、責められることになる。
千代子にばかり共感するのは、本作の読み方として妥当かどうかよくわからない。しかし、敬太郎はただの野次馬、須永は人でなしときては、ヒロインを礼賛するしかないのではなかろうかと思う。
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『携帯彼氏』
2008.05.05 [ Edit ]
ケータイ小説初体験
ゴールデンウィークだというのに面白そうな映画もやってないしどうしよう、と思っていたのだが、以前から気になっていたケータイ小説を読んでみることにした。
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カラフルな表紙がなんだか恥ずかしいし、横書きで改行の多い本なので、カバーをかけて読んでいても、ケータイ小説だというのがバレバレである。
でも、そんなことは気にせず、読み始めると……。
コレハオモシロイ。
一気に読み終わってしまったのである。ケータイ小説、なかなか馬鹿にできないじゃないか。
『携帯彼氏』はホラー小説だった
(あらすじ)
恋愛シミュレーションゲーム“携帯彼氏”をダウンロードすると死ぬ。
主人公・里美は、謎の死をとげた友人の死の真相を探るため、自らの携帯に“携帯彼氏”をダウンロードする。謎が明らかになるにつれ、自身にも迫る死の恐怖。携帯を壊す、捨てる、機種変・解約するなどあらゆる方法を試しても、この恐怖からは逃れることができない。液晶画面の中で、“携帯彼氏”は今も微笑んでいる……。
カバー帯に「ミステリー」と書かれているが、本書はホラー小説である。
なにしろ1ページ目から、人が立て続けに死ぬ。スプラッターな場面も多い。(そういうのが苦手な人は読まないほうがいい。)
次から次へと事件が起こるストーリー展開で、畳み込むようなテンポの良い文章も見事なものだと思う。
そうだ。短いセンテンスをつないだような文体は、この物語にマッチしているのだ。
ケータイ小説の描き出す世界
学園ものと呼ばれる小説・マンガの多くは、どんなに大きな事件が起こっても学校内で全てが解決する。それと同様に、本作の主人公は20歳の社会人だが、全ての事件は主人公の目の前で起こり、社会全体が混乱に陥ることはない。また、謎を解くための情報源は全て友人から聞いた噂話であって、裏づけなどないのである。医者も警察も(ほとんど登場しないマスコミも)頼りにならないのだ。
ごく身近な人間関係と狭い行動範囲の中だけで全てを解決しようとするのは、さすがに無理がある気もするのだが、ある意味、そういう縛りをかけた上で話を展開させるところに、ケータイ小説の新しさがあるのではないだろうか。
作中、主人公は携帯電話に依存したコミュニケーションのあり方に疑問を投げかける。しかし、そういう生き方を否定するのではなく、そのまま受け止め、肯定しようとするところに、若い読者は共感するのではないかと思った。
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携帯彼氏[魔法のiらんど]
『携帯彼氏』が掲載されているサイト。
書籍版はかなり加筆・修正されているようで、特に結末部分のニュアンスが異なっている。




