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FETISH STATION

From Tokyo to the world.

夏目漱石 『虞美人草』

2008.03.30 [ Edit ]

 『虞美人草』は、モーツァルトのオペラに似ている。
 主に六人の男女が登場し、派手な恋の物語を展開する様は、『フィガロの結婚』を思わせるし、作中のきっぱりとした善悪の区別、ヒロイン・藤尾と彼女の母親の存在は、『魔笛』のヒロイン・パミーナとその母・“夜の女王”に相似する。

 本作は明治40年に発表された、漱石にとって、職業作家としての初の小説である。
 「初の」というだけあって、前評判は高く、作者も力が入っている。いや、力みすぎているといったほうが良いだろう。
 文体は美文調で、平安朝風かと思えば漢詩やシェークスピアの引用など、満艦飾が施されているが、その分、前半はテンポが遅く、なかなか話が先へ進まない。また、登場人物は紋切型で、悪役(藤尾とその母)は最初から悪役と定義づけられている。判りやすいといえば解りやすいのだが、これは近代小説というよりは、前述のオペラや歌舞伎などの古典芸能に近いものではないか。
 しかし、後半の展開は凄まじく、特に最後の50ページほどは怒涛の展開を見せる。(アマゾンのレビューに「まるでミュージカルを思わせるようなテンポの良さ」と書かれていたが、全くそのとおりだと思う。)このスピード感は、『坊っちゃん』を恋愛小説に仕立てたような、あるいはそれを凌ぐような勢いのものであり、漱石の作品中でも群を抜いている。

 さて、“夜の女王”に匹敵する「藤尾の母」だが、彼女は作中、「謎の女」と呼ばれている。ここでいう「謎」とは正体不明ということではなく、本音と建前の違いが著しいため、何を考えているのか傍目に分からないといった意味である。体裁を重んじるあまり、内心とかけ離れたことばかり口から出てしまう彼女の性格は、作中の道義によれば悪だが、考えてみれば、こういうタイプの人物は、後に谷崎潤一郎の小説に頻繁に登場するのであった。(『卍』、『蓼喰う虫』、『細雪』など。)財産目当てという動機も、当時の女性、特に未亡人の社会的地位を考えれば無理からぬところであろう。
 また、肝心のヒロイン・藤尾は「驕る女」と地の文で書かれ、作者から相当に嫌われているようだが、決してただの悪女ではなく、芸術を理解し、近代的な自我を持った一人の女性として、十分な魅力を持っている。
 藤尾は、他の全員が見守る中、意中の男性(小野)から他の女性(小夜子)と婚約したことを告げられ、さらに別の男性(宗近)からも見捨てられ、ショックのあまり死んでしまう。

 すべてが美くしい。美くしいもののなかに横(よこた)わる人の顔も美くしい。驕(おご)る眼は長(とこしな)えに閉じた。驕る眼を眠った藤尾の眉は、額は、黒髪は、天女のごとく美くしい。


 生前に散々作者に苛められた藤尾の、これが最期である。
 ヒロインの死によって、他の全ての者たちは和解し、ようやく安穏な日々を迎えようとするところで、本作は終わる。

 『虞美人草』より後、『三四郎』以降の長編小説では、このような明快な結末を持ったものはない。
本作は、漱石にとって初の新聞小説であったが、同時に初期の終わりとなった作品となったのではないかと思うのである。


虞美人草 (新潮文庫)虞美人草 (新潮文庫)
(1951/10)
夏目 漱石

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コンサートや映画館などのマナーについて

2008.03.22 [ Edit ]

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか - 「石版!」

大変面白い記事を読ませていただきました。
クラシックのコンサートには、独特のマナーや習慣がたくさんあって、いずれも非常に厳しく守るべしとされていますよね。
演奏中に物音を立てるのは言語道断。拍手をするタイミングなども難しいものがあります。
例えば、交響曲や協奏曲では第一楽章、第二楽章……の間に、数秒から1分程度の「間」がありますが、このときに拍手をしてはいけない。(せきをするひとは多いですが。)最終楽章が終わり、最後の音が完全に消えてから、あるいは指揮者がタクトを止めてから拍手をするしきたりです。でも、こういう習慣って、いつ頃からあるのでしょうか?
モーツァルトは、サロンで演奏する際、演奏会の最初に協奏曲の第一・第二楽章を、最後に第三楽章を演奏したそうです。楽曲に関する考え方が、現代とは全く違っていたわけですね。
こういうのは極端な例なのかもしれませんが、音楽鑑賞についてのマナーや習慣というのは、時代によって変化するものなのではないかと思うのです。

1970年代、僕が学生の頃ですが、当時のジャズ喫茶は「おしゃべり禁止」のところがほとんどでした。
小声で会話するくらいなら構わないのですが、友人同士でげらげら笑ったりすると、店のおじさんに怒られるんです。
その頃のジャズ喫茶で流れる音楽は、ピアノ・トリオみたいなのはほとんどなくて、ジョン・コルトレーンやオーネット・コールマンのようなハードでシリアスな音楽ばかりで、しかもでかいスピーカで大音量でかかっていました。
でも、そういうハードでシリアスなジャズ喫茶は、ほとんどつぶれてしまいました。(今、そういう店は都内に何軒残っているんだろう?)
80年代以降のジャズ喫茶は、やや控えめな音量で、キース・ジャレットやチック・コリアを流すBGM喫茶に変貌しています。店内の照明も明るく、カップルや女性客が安心して入ることができて、静かにおしゃべりすることができます。彼らはおしゃべりをしていますが、全体としては以前よりずっと静かな雰囲気になっていて、音楽を聴くのに邪魔になるわけではありません。

映画館もだいぶ変わりました。
レンタル・ビデオのなかった時代、古い映画は名画座という専門の劇場で、3本立てで見るのが普通でした。そういう映画館で3本全部見ようとすると、6時間くらいかかりますし、入替え制なんてありませんでしたから、上映中だろうが、構わずに入退場するんです。1本目の途中から見て、2本目3本目は普通に見て、また1本目を最初から途中(最初に入場したあたり)まで見て、退場する、というパターンですね。
あと、3本立てというのは上演する映画の組み合わせが微妙で、つまらない映画、ジャンルの違う映画が併映されることがあります。(一番ひどかったのは、吉川晃司主演の『すかんぴんウォーク』とアニメ『うる星やつら』が一緒になってました。)そういうとき、休憩時間に退場するだけでなく、次の映画が始まっているのに、平気で退場するひともたくさんいました。今ではちょっと考えられないことなんですけどね。

マナーや習慣は、時代によって変わるものだと思います。
それは、芸術や娯楽作品を鑑賞する立場や態度そのものが、変化していくものだからだと思います。
昔と今を比較して、どちらが良いかということではなく、その時代に合った鑑賞態度、マナーが必要とされるのではないでしょうか。

夏目漱石 『坊っちゃん』

2008.03.20 [ Edit ]

 新潮文庫版 『坊っちゃん』の巻末の解説に、こんなことが書かれている。

・『坊っちゃん』は576字詰原稿用紙149枚(400字詰換算215枚)に執筆された。
・執筆期間は1週間前後と推定される。
・原稿には消しや直しを行った箇所がきわめて少ない。

 Amazon.co.jp:直筆で読む「坊っちやん」 (集英社新書 ビジュアル版 6V) には、「三週間で書き上げたといわれる」と書かれており、また、レビューを読むと、一部口述筆記だったものを後から清書したようでもある。それでも物凄い速さで本作が執筆されたことに変わりはない。(集英社新書のほうは未読なので、一度手にとってみたいと思っている。)

 『坊っちゃん』の面白さは、第一に主人公の語り口であり、第二にテンポの速さである。
 短気で直情径行、江戸っ子気質の主人公「おれ」は、四国の中学校に教師として赴任する。しかし、もう端から四国の人間を田舎者だとして馬鹿にしている。また、教師という職業を舐めきっており、授業など最初からルーティン扱いである。(その結果、逆に生徒から逆襲される。)正義感が強いと自称しているが、大義というよりは私怨によって行動しているようにも見える。
 ひどい主人公だが、憎めない。無茶苦茶な展開だが、お構いなしに、どんどん話が進んでいく。

 400字詰215枚、文庫本で180ページ弱というのは、小説としては中編のボリュームだが、登場人物の数、次々と起こる事件の数々を考えると、大長編に匹敵するほど中身が詰まっているといえよう。主人公は常に饒舌であり、時には脱線したり、余計なエピソードまでついている。その代わり、脇役の描写は極端に単純化され、マンガ的にデフォルメされている。
 漱石の小説には、他にこれほど忙しい展開のものはないが、登場人物がマンガ的という点では、『虞美人草』が共通するかもしれない。別の意味でこれも面白いので、また感想を書きたいと思う。




坊っちゃん (新潮文庫)坊っちゃん (新潮文庫)
(1950/01)
夏目 漱石

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夏目漱石 『門』

2008.03.09 [ Edit ]

 『門』 は地味な小説である。
 『三四郎』、『それから』 に続く漱石の前期三部作の完結編と呼ばれているが、ようするに“『それから』 の、それから”、前作のおまけ扱いである。しかし、本作は決しておまけレベルの小説ではなく、一個の独立した名編として読まれるべき作品であると思う。


キーワードは「過去」

 本作の大半は、宗助・御米夫婦の平凡な日常生活を淡々と描くことに費やされる。しかし、常に二人は不安を抱えており、全体が不協和音に満ちている。その不安とは何か、「過去」に何があったのか、というのが本作のテーマである。


衝撃的な回想場面

 過去から現在そして未来へと直線的に語られる時間軸とは別に、小説の中で、「過去」を回想する場面が挿入され、読者をその時間へと移動させ、登場人物と同様に「過去」を体験させる、という手法は、現在ではごく一般的なものだが、本作が発表された当時は画期的なものではなかっただろうか。
 というのは、これは映画的な手法だからである。(本作が新聞に連載されたのは1910年。映画でいうフラッシュ・バックという手法が先にあったのかどうか、わからないのだが。)
 漱石に限っていえば、前作 『それから』 以前の作品においては、「過去」を語る際、作中の人物に「過去」を語らせる方法が取られていた。しかし、本作では、登場人物が過去を回想するのではなく、話者が、主に人物の記憶を再現することによって、直接に「過去」を描写しているのである。
 本作には、このような手法による、かなりまとまった長さの回想場面が、三度に亘って描かれている。
 一度目は宗助の弟・小六の学業と家の経済事情について(これが一番長い)。
 二度目は夫婦の子供に恵まれない事情と御米の心情について。
 そして、三度目は宗助と御米の出会いと、友人・安井に対する裏切りについて。

 夫婦は崖の下の借家に住んでおり、崖の上には家主の屋敷がある。時折、崖の上から子供たちの賑やかな声が聞こえたり、ピアノの音が聞こえてきたりする。一見、何の変哲もない、むしろ平和な光景のようだが、後になって語られる御米の心情(彼女は流産、死産等によって三回も子を喪っている)を読むと、こんな情景さえ、不協和音の一つとなって、読者を打つのである。御米の「過去」が後から語られることによって生じる文学的な効果といえよう。本作にはこういった仕掛けがいくつもあるのである。


仏門をくぐる宗助

 「門」という題名は、漱石の弟子森田草平が決めたもので、辞書を適当に開いて、最初に目に入った文字だった、という逸話がある。のちに漱石は「一向に門らしくなくて困っている」といっているが、漱石の作品には題名を適当につけたものが多く、新聞連載小説のためでもある。

門(小説) - Wikipedia


 小説の後半、宗助が禅寺へ行き修行するくだりがあるが、どうにもこれは後から取ってつけたような感を拭えない。
 そもそも、彼は役所勤めのサラリーマンであり、休暇をとって、最初から十日間の予定で、鎌倉の禅寺を訪れている。彼自身、承知しているとおり、そんな短期間のお手軽修行で、悟りを開けるわけはないのだ。(実際に禅を信仰している方であれば、違った解釈も出来るのかもしれない。そのあたりどうなんだろう?)
 突然、宗助が禅寺へ行った真の目的は、現実からの逃避にほかならない。
 彼には、かつて親友・安井を裏切り、彼の妻であった御米を奪って結婚したという過去があった。非社交的な宗助が、崖の上の家主・坂井とせっかく懇意になったところ、坂井の家に安井がやって来ることがわかる。坂井の前で安井と対面したりしては、彼の過去が暴かれてしまう。そんなことになっては、この家を引っ越さねばならない、という事態を回避するため、宗助は家を空けようとする。漠然とした不安が、具体的な恐怖へと変わったのだ。
 禅寺から戻った後、安井は到来したものの、再び蒙古へと旅立ったと、家主から明かされ、宗助は胸を撫で下ろす。時間稼ぎは見事成功したわけである。

 平穏な夫婦の生活と、その底に秘められた不安。
 暗い過去と罪悪感の日々。
 そこに救いはない。
 しかし、深刻な問題は後回しにしながら、どうにか生き抜いていく。
 これが、この小説に描かれた夫婦の生き方の全てである。
 少なくとも、現在の僕はそのように理解している。



門 (新潮文庫)門 (新潮文庫)
(1948/11)
夏目 漱石

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おまけ〜『門』の謎

【その1】
 小説の中盤に至るまで、主人公夫婦は一度も家主の顔を見たことがない。(家賃は下女に持たせて支払っていると書かれている。)
 不動産管理会社が全てを仕切る現代ならいざ知らず、いくら東京を舞台にした話とはいえ、そんなことがあるのだろうか?

【その2】
 新しい着物を買うにも散々迷うくらいの貧しさなのに、下女を住まわせている。
 『それから』 のヒロイン・三千代の家も相当の貧しさにも拘らず、下女がいたが、どれくらい現実的な話なのだろうか?

 漱石の作品には、現代の我々には理解しにくい設定がときどき登場する。そこがまた面白いと思うのだけれど。

夏目漱石 『それから』

2008.03.01 [ Edit ]

 「漱石の小説の中から一番好きなものを一つだけ選べ」と言われたら、あなたはどの作品を挙げるだろうか?
 『我輩』? 『こころ』? 『明暗』? だいたいそのあたりに落ち着くかもしれない。
 しかし、「好きな漱石作品を二つ(または三つ)選べ」と言われたら、多くの読者が 『それから』 を挙げるのではないだろうか。夏目漱石の十数冊ある長編小説の中で、本書はそんな位置づけの作品なのだと思う。

 僕が感じる 『それから』 の魅力を、思いつくまま書き出してみよう。

(1) 登場人物(キャラクター)の魅力
 無駄な登場人物が一人もいない。主人公やヒロインのみならず、下女や書生に至るまで、人物一人ひとりの性格や背景などが緻密に書き込まれ、人間関係に奥行きが感じられる。(『虞美人草』や『三四郎』との大きな違いである。)

(2) ストーリー・プロットの面白さ
 主人公の日常生活を淡々と、しかし精密に書き連ねていく筋書きだが、次第に彼がある状況に追い込まれ、後半になると爆発的に盛り上がる。

(3) 文章と文体
 漱石の文章は、その独特の文体に魅力がある。しかし、前作 『三四郎』 までと比べて、本作のあたりから文中の漢語が減少し、非常に読みやすくなっている。また、この平易な文章は、状況・行動・心理などの細やかな描写に対して、効果的なものとなっている。

 さて、後半に向けてどんどん盛り上がるストーリーの中で、僕の大好きな場面を引用したい。
 主人公・代助は、懇ろにしていた女性・三千代を、親友・平岡に譲る。三千代は平岡と結婚し、それから三年が過ぎた。しかし、代助は三千代のことを忘れられず、親族から勧められた縁談を断ってしまう。
 ある日、彼は三千代を彼の自宅に呼び、そこで彼女への愛を告白しようと決意する。だが、話はなかなか本題へ至らず、ぐずぐずしたままである。
 季節は梅雨。場所は洋風の座敷。二つの花瓶に白百合の花が生けてある。

 雨は依然として、長く、密に、物に音を立てゝ降つた。二人は雨の為に、雨の持ち来す音の為に、世間から切り離された。同じ家に住む門野からも婆さんからも切り離された。二人は孤立の儘、白百合の香(か)の中に封じ込められた。
「先刻表へ出て、あの花を買つて来ました」と代助は自分の周囲を顧みた。三千代の眼は代助に随(つ)いて室の中を一回(ひとまはり)した。其後(あと)で三千代は鼻から強く息を吸ひ込んだ。
「兄さんと貴方と清水町にゐた時分の事を思ひ出さうと思つて、成るべく沢山買つて来ました」と代助が云つた。
「好(い)い香(にほひ)ですこと」と三千代は翻がへる様に綻(ほころ)びた大きな花瓣(はなびら)を眺めてゐたが、夫(それ)から眼を放して代助に移した時、ぽうと頬を薄赤くした。
「あの時分の事を考へると」と半分云つて已(や)めた。
「覚えてゐますか」
「覚えてゐますわ」
「貴方は派手な半襟を掛けて、銀杏返しに結つてゐましたね」
「だつて、東京へ来立(きたて)だつたんですもの。ぢき已(や)めて仕舞つたわ」
「此間百合の花を持つて来て下さつた時も、銀杏返しぢやなかつたですか」
「あら、気が付いて。あれは、あの時限(ぎり)なのよ」
「あの時はあんな髷に結ひ度(たく)なつたんですか」
「えゝ、気迷れに一寸結つて見たかつたの」
「僕はあの髷(まげ)を見て、昔を思ひ出した」
「さう」と三千代は恥づかしさうに肯(うけが)つた。
 三千代が清水町にゐた頃、代助と心安く口を聞く様になつてからの事だが、始めて国から出て来た当時の髪の風を代助から賞められた事があつた。其時三千代は笑つてゐたが、それを聞いた後でも、決して銀杏返しには結はなかつた。二人は今も此事をよく記臆してゐた。けれども双方共口へ出しては何も語らなかつた。


 ため息の出るような美しい情景としか言いようがない場面である。
 雨の音と白百合の香りによって、二人は「孤立」するのだが、そればかりでなく、この許されざる恋によって、彼らが身内からも世間からも「孤立」していることに注目したい。

 このあと、代助は愛を告白し、その後、三千代と何度も会うことになる。しかし、彼女は結婚後より心臓を患っており、丈夫な身体ではなかった。
 以下は、二人の最後の会見の場面から。

「今貴方の御父様の御話を伺つて見ると、斯(か)うなるのは始めから解つてるぢやありませんか。貴方だつて、其位な事は疾(と)うから気が付いて入(いら)つしやる筈だと思ひますわ」
 代助は返事が出来なかつた。頭を抑えて、
「少し脳が何(ど)うかしてゐるんだ」と独り言の様に云つた。三千代は少し涙ぐんだ。
「もし、夫(それ)が気になるなら、私の方は何(ど)うでも宜う御座んすから、御父様と仲直りをなすつて、今迄通り御交際(つきあひ)になつたら好いぢやありませんか」
 代助は急に三千代の手頸(てくび)を握つてそれを振る様に力を入れて云つた。――
「そんな事を為(す)る気なら始めから心配をしやしない。たゞ気の毒だから貴方に詫(あやま)るんです」
「詫まるなんて」と三千代は声を顫(ふる)はしながら遮つた。「私が源因(もと)で左様(さう)なつたのに、貴方に詫まらしちや済まないぢやありませんか」
 三千代は声を立てゝ泣いた。代助は慰撫(なだ)める様に、
「ぢや我慢しますか」と聞(き)いた。
「我慢はしません。当り前ですもの」
「是から先まだ変化がありますよ」
「ある事は承知してゐます。何んな変化があつたつて構やしません。私は此間から、――此間から私は、若(もし)もの事があれば、死ぬ積で覚悟を極めてゐるんですもの」
 代助は慄然として戦(おのの)いた。
(中略)
「平岡君は全く気が付いてゐない様ですか」
「気が付いてゐるかも知れません。けれども私もう度胸を据ゑてゐるから大丈夫なのよ。だつて何時殺されたつて好いんですもの」
「さう死ぬの殺されるのと安つぽく云ふものぢやない」
「だつて、放つて置いたつて、永く生きられる身体ぢやないぢやありませんか」
 代助は硬くなつて、竦(すく)むが如く三千代を見詰めた。三千代は歇私的里(ヒステリ)の発作に襲はれた様に思ひ切つて泣いた。


 女性(にょしょう)と両思いになったものの、代助先生、完敗である。
 三千代の恋は命がけだが、彼のほうにはそこまで全てを投げ打つ心持がないのだ。「遊民」などと称しているが、所詮は金持ちの次男坊、ボンボンの発想である。
 結局、職を持たない彼は親兄弟から勘当されて経済的な基盤を失い、親友(平岡)を失い、そればかりか、三千代の病気を理由に平岡から彼女との面会を拒絶される。
 代助の覚悟が中途半端であったために、全てを失ってしまうわけである。

 このように、本作の主人公はダメ男なのだ。
 ダメ男のダメっぷりが最高なのである。
 なぜなら、こういうダメな部分、誰でも持っていそうだし、僕もその例外ではないからである。

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 『それから』 は、1985年に映画化されたことがある。監督は若き日の森田芳光、出演は松田優作(代助)、藤谷美和子(三千代)、小林薫(平岡)で、明治の雰囲気を静かに美しく描いた作品であった。
 余談だが、現在、テレビ放映中のドラマ 『鹿男あをによし』 に出演している玉木宏、綾瀬はるか、佐々木蔵之介というキャストで、『それから』 をリメイクしたら、面白くなりそうな気がするのだけど、いかがであろうか。



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