谷崎潤一郎 『春琴抄』
2009.04.30 [ Edit ]
『春琴抄』 は、昭和8年に発表された短編小説。
上は、主人公・佐助が自らの目を針で突き、盲目となったことを春琴に告げる本編最大のクライマックスである。
僕は何度もこのくだりを読み返し、その度に陶酔と感動を味わう。
美しい文章に彩られた愛の絵巻。谷崎文学の最高傑作のひとつである。
スポンサーサイト
![]() | 春琴抄 (新潮文庫) (1951/01) 谷崎 潤一郎 商品詳細を見る |
……お師匠様私はめしいになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額ずいて云った。佐助、それはほんとうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思していた佐助は此の世に生れてから後にも先にも此の沈黙の数分間程楽しい時を生きたことがなかった……
上は、主人公・佐助が自らの目を針で突き、盲目となったことを春琴に告げる本編最大のクライマックスである。
僕は何度もこのくだりを読み返し、その度に陶酔と感動を味わう。
美しい文章に彩られた愛の絵巻。谷崎文学の最高傑作のひとつである。
スポンサーサイト卒業式・一九七九
2009.03.07 [ Edit ]
高校の卒業式の最中に、ちょっとした事件があった。
僕が通っていた高校は都立である。今はどうか知らないが、当時はちょっとした受験校だった。1970年代の後半をどっぷりとこの学校で過ごしたわけだが、当時の都立高校は、70年代初めまで吹き荒れていた学園紛争(そう、高校にも紛争があったのだ)の嵐はとっくに消え去り、無気力・無責任・無感動の 《三無主義》 が定着していた――そんな時代の話である。
私服の学校だったのだけれど、昔は制服があって、学園紛争の頃の生徒会が学校当局と戦った末に、「服装の自由」 を勝ち取ったのだ、という噂というか伝説というか、そういう話が生徒たちの間に伝わっていた。
私服(生徒手帳には 「自由服」 と書かれていた気がする)だから、僕はふだんジーンズを履いて登校していた。ぱりっとしたブレザーにスラックスの者もいた。女子の服装はもっと幅が広く、ちょっとヤンキーがかったのから、スーツにパンストの子までいた。しかし、「自由服」 という建前上、常識的な範疇なら何を着ても構わないはずなのに、あえて詰襟の学生服(いわゆる学ラン)を着用するのは、かなり勇気が必要だった。学年に数名、学ラン着用者がいたのだが、彼らが何を考えているのか、僕にはわからなかった。
さて、卒業式である。
さすがにジーンズというわけにいかず、僕は初めて買ったスーツを着て、卒業式に出席した。他の大部分の生徒も男子はスーツかブレザー、女子はスーツかワンピースだったと思う。そして、例の学ラン組はいつものとおり学ランを着ていた。
式は予定どおりに進行し、校長が祝辞を述べている最中に、それは起こった。
数名の人間が突然、会場内に乱入し、卒業式が中断したのである。
闖入者はヘルメットを被り、タオルで覆面をしていた。子供の頃、テレビで見たことのある 《全共闘》 そのままの格好だった。覆面の男たちは壇上に立ち並び、拡声器をもったリーダー格の男が叫んだ。
「我々はァァァァァァ〜!!」
そのあとは音声が割れていて、何を言っているのかさっぱりわからない。
卒業生、在校生の一部、父母、教師でいっぱいの会場は騒然とする。祝辞を中断された校長は唖然とするばかりだった。
その時、卒業生の坐っている席から、何人かが立ち、つかつかと前方に歩み寄った。彼らは全員が学ランだったのである。学ランは覆面男たちを壇上から引きずりおろし、彼らに鋭いパンチを何度も浴びせた。一瞬遅れて、男性教師たちが闖入者を捕え、場外へと連れ去った。
ここまでの出来事は1分もかからない間に起こり、そして終わったのである。
式は何事もなかったかのように再開されたが、もはや誰も祝辞など聞いてはいなかった。そして、式の終了後、学ランたちに向けての声援の歓声が会場内に響いた。
あとから担任に聞いた話だが、卒業式を妨害した覆面男たちは学校の通報により、警察に引き渡されたらしい。また、彼らは母校の卒業生・在校生ではないということだ。
それともう一つ、僕が記憶に留めていることがある。覆面男たちを捕まえる騒動の間、教師を含め、誰も学ランたちの行動を止めようとはしなかったのだ――そんな時代の話である。
僕が通っていた高校は都立である。今はどうか知らないが、当時はちょっとした受験校だった。1970年代の後半をどっぷりとこの学校で過ごしたわけだが、当時の都立高校は、70年代初めまで吹き荒れていた学園紛争(そう、高校にも紛争があったのだ)の嵐はとっくに消え去り、無気力・無責任・無感動の 《三無主義》 が定着していた――そんな時代の話である。
私服の学校だったのだけれど、昔は制服があって、学園紛争の頃の生徒会が学校当局と戦った末に、「服装の自由」 を勝ち取ったのだ、という噂というか伝説というか、そういう話が生徒たちの間に伝わっていた。
私服(生徒手帳には 「自由服」 と書かれていた気がする)だから、僕はふだんジーンズを履いて登校していた。ぱりっとしたブレザーにスラックスの者もいた。女子の服装はもっと幅が広く、ちょっとヤンキーがかったのから、スーツにパンストの子までいた。しかし、「自由服」 という建前上、常識的な範疇なら何を着ても構わないはずなのに、あえて詰襟の学生服(いわゆる学ラン)を着用するのは、かなり勇気が必要だった。学年に数名、学ラン着用者がいたのだが、彼らが何を考えているのか、僕にはわからなかった。
さて、卒業式である。
さすがにジーンズというわけにいかず、僕は初めて買ったスーツを着て、卒業式に出席した。他の大部分の生徒も男子はスーツかブレザー、女子はスーツかワンピースだったと思う。そして、例の学ラン組はいつものとおり学ランを着ていた。
式は予定どおりに進行し、校長が祝辞を述べている最中に、それは起こった。
数名の人間が突然、会場内に乱入し、卒業式が中断したのである。
闖入者はヘルメットを被り、タオルで覆面をしていた。子供の頃、テレビで見たことのある 《全共闘》 そのままの格好だった。覆面の男たちは壇上に立ち並び、拡声器をもったリーダー格の男が叫んだ。
「我々はァァァァァァ〜!!」
そのあとは音声が割れていて、何を言っているのかさっぱりわからない。
卒業生、在校生の一部、父母、教師でいっぱいの会場は騒然とする。祝辞を中断された校長は唖然とするばかりだった。
その時、卒業生の坐っている席から、何人かが立ち、つかつかと前方に歩み寄った。彼らは全員が学ランだったのである。学ランは覆面男たちを壇上から引きずりおろし、彼らに鋭いパンチを何度も浴びせた。一瞬遅れて、男性教師たちが闖入者を捕え、場外へと連れ去った。
ここまでの出来事は1分もかからない間に起こり、そして終わったのである。
式は何事もなかったかのように再開されたが、もはや誰も祝辞など聞いてはいなかった。そして、式の終了後、学ランたちに向けての声援の歓声が会場内に響いた。
あとから担任に聞いた話だが、卒業式を妨害した覆面男たちは学校の通報により、警察に引き渡されたらしい。また、彼らは母校の卒業生・在校生ではないということだ。
それともう一つ、僕が記憶に留めていることがある。覆面男たちを捕まえる騒動の間、教師を含め、誰も学ランたちの行動を止めようとはしなかったのだ――そんな時代の話である。
いかなごの炊いたん
2009.01.17 [ Edit ]
親戚の Y さんが震災で家を失ったのは、彼女が70歳のときだった。
親戚、といってもかなりの遠縁にあたり、僕はそれまで会ったことがなく、かろうじて父が連絡先を知っているだけの間柄だった。
Y さんの住まいは、神戸の下町のアパートだったそうだ。関西の地理に疎いのだが、長田区のあたりだろうか。 地震のため長年住んでいた建物は全壊。独り暮らしのYさんは無事だったが、周囲の多くの方が亡くなったらしい。
避難所での生活は長く続き、Y さんの仮設住宅への入居が決まるまで半年かかった。
1996年3月。僕は、神戸を訪れた。
震災から1年経っていたが、元町の商店街のビルが根元から倒壊して、隣りの建物に寄りかかるようになったまま廃墟と化していたのをはっきりと記憶している。
神戸市北区。
起伏の多い、山の中の新興住宅地の真ん中にある、児童公園だったと思われる土地にプレハブの長屋が所狭しと並んでいる。 その一室に、Yさんは住んでいた。 数日前に降り積もった雪が、日陰に残っていたのを覚えている。
仮設住宅は、夏は炎天に晒され、冬は雪に閉ざされる過酷な建物だ。 ベニヤで仕切られた壁は、避難所よりましだったが、両隣の物音が全部聞こえてくる。
僕の話し声は、若い頃の父に似ている。
そんな僕の突然の来訪を、Y さんは喜んでくれた。
「近所に友達がいなくてねえ。日中は神戸までバスで出かけることが多いのよ」
と、Y さんは語った。
バスは30分に1本。片道30分の道のりだそうだが、聞いてみると、ほとんど毎日のように下町まで出かけているという。
Y さんから、おみやげに「いかなごの炊いたん」(正式には「いかなごの釘煮」という)を頂いた。
タッパーの中にぎっしり詰められた、飴色の小魚。 関西ではポピュラーな食べ物らしいのだが、僕はそれを初めて見た。
家に持ち帰って食べたら、すごく美味しかった。
それ以降、Y さんと僕は時々手紙のやりとりをするようになった。
同じ北区の市営住宅への入居が決まったのは、さらに翌年のことだった。 震災から実に2年以上も経過していたのだ。
Y さんが市営住宅に移転して、さらに3年後のこと。 僕の出した手紙が宛先不明で戻ってきた。
父に電話して、彼女の消息を尋ねたところ、数ヶ月前に入院し、そこで亡くなったのだという。 父がその事実を知ったのも、人づてであったらしい。
神戸市消防局:阪神・淡路大震災
神戸市消防局のサイトには、阪神・淡路大震災の被害により、亡くなった方は6,434人にのぼると書かれている。
しかし、Yさんは、この人数に含まれていないのだと思う。
親戚、といってもかなりの遠縁にあたり、僕はそれまで会ったことがなく、かろうじて父が連絡先を知っているだけの間柄だった。
Y さんの住まいは、神戸の下町のアパートだったそうだ。関西の地理に疎いのだが、長田区のあたりだろうか。 地震のため長年住んでいた建物は全壊。独り暮らしのYさんは無事だったが、周囲の多くの方が亡くなったらしい。
避難所での生活は長く続き、Y さんの仮設住宅への入居が決まるまで半年かかった。
1996年3月。僕は、神戸を訪れた。
震災から1年経っていたが、元町の商店街のビルが根元から倒壊して、隣りの建物に寄りかかるようになったまま廃墟と化していたのをはっきりと記憶している。
神戸市北区。
起伏の多い、山の中の新興住宅地の真ん中にある、児童公園だったと思われる土地にプレハブの長屋が所狭しと並んでいる。 その一室に、Yさんは住んでいた。 数日前に降り積もった雪が、日陰に残っていたのを覚えている。
仮設住宅は、夏は炎天に晒され、冬は雪に閉ざされる過酷な建物だ。 ベニヤで仕切られた壁は、避難所よりましだったが、両隣の物音が全部聞こえてくる。
僕の話し声は、若い頃の父に似ている。
そんな僕の突然の来訪を、Y さんは喜んでくれた。
「近所に友達がいなくてねえ。日中は神戸までバスで出かけることが多いのよ」
と、Y さんは語った。
バスは30分に1本。片道30分の道のりだそうだが、聞いてみると、ほとんど毎日のように下町まで出かけているという。
Y さんから、おみやげに「いかなごの炊いたん」(正式には「いかなごの釘煮」という)を頂いた。
タッパーの中にぎっしり詰められた、飴色の小魚。 関西ではポピュラーな食べ物らしいのだが、僕はそれを初めて見た。
家に持ち帰って食べたら、すごく美味しかった。
それ以降、Y さんと僕は時々手紙のやりとりをするようになった。
同じ北区の市営住宅への入居が決まったのは、さらに翌年のことだった。 震災から実に2年以上も経過していたのだ。
Y さんが市営住宅に移転して、さらに3年後のこと。 僕の出した手紙が宛先不明で戻ってきた。
父に電話して、彼女の消息を尋ねたところ、数ヶ月前に入院し、そこで亡くなったのだという。 父がその事実を知ったのも、人づてであったらしい。
神戸市消防局:阪神・淡路大震災
神戸市消防局のサイトには、阪神・淡路大震災の被害により、亡くなった方は6,434人にのぼると書かれている。
しかし、Yさんは、この人数に含まれていないのだと思う。
ジャケ買いしたいCD・FETISH編
2009.01.03 [ Edit ]
はてブのノベルティセットが届きましたよ
2008.12.28 [ Edit ]
はてなのノベルティセットがおうちに届いたよ! - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

FETISH STATION - はてブのノベルティセットが当たりましたよの続き。
というわけで、我が家にもノベルティセットが届きましたので、画像で見せびらかしちゃいます。


こちらは、メモケース。小学校の頃、使っていた筆箱(缶のやつはまだなかった)みたいな感じのものです。
続いて、しおり×4枚。




最後に、赤のボールペン。全部、はてなブックマークのロゴ入りです。

「はてなブックマークのノベルティセット欲しい!」キャンペーンの当選者を決定いたしました - はてなダイアリー日記
はてなスタッフのみなさん、ありがとうございました。
はてブもずっと使い続けていると、いいことがあるものですね。

FETISH STATION - はてブのノベルティセットが当たりましたよの続き。
というわけで、我が家にもノベルティセットが届きましたので、画像で見せびらかしちゃいます。


こちらは、メモケース。小学校の頃、使っていた筆箱(缶のやつはまだなかった)みたいな感じのものです。
続いて、しおり×4枚。




最後に、赤のボールペン。全部、はてなブックマークのロゴ入りです。

「はてなブックマークのノベルティセット欲しい!」キャンペーンの当選者を決定いたしました - はてなダイアリー日記
はてなスタッフのみなさん、ありがとうございました。
はてブもずっと使い続けていると、いいことがあるものですね。

